noble of death 抜けるように青い空だった。嫌なことなんて全部吹っ飛んじゃうくらい、鳥の影が地面に映ってすぐに消えていった。ああ、彼らはどこかへ帰っていくのかな。あたしは屋上に立っていた。そ、自分が住んでいるマンションの屋上。14階建ての高層建築で綺麗でオシャレで(デザイナーズマンションっていうんだって)、それってやっぱり家賃も高くてね。お父さんが仕事を頑張って、数年前に越してきたばかり。 で、あたしが今立ってるのはフェンスの前。もちろん外側だよ。何してるかって? 決まってるじゃない。 自殺。 あ、信じてないな? あたし、意外と本気なんだよ? 見慣れた大きな駐車場が下にあって、今日もジャガーとかベンツとかポルシェとかBMWとか、フォードなんかもある。渋い。そんなわけであたし、今後ろでフェンス持ってるこの手を離したらアスファルトか車のボンネットに頭直撃ってわけで、即死。そ・く・しだよ。そーくーしー。まぁそんな感じ。 ひゅ、と下からの風が前髪と、汗ばんだ頬を撫でた。あたしすごい高所恐怖症だから、足がガタガタ。みっともないくらいに震えてる。さぁ、飛ばなきゃ。 カタン、と。今さらながらに靴を脱いでなかったことに気がついて、脱いだ靴をフェンスの内側に並べた。遺書も。2つ折にしたのを制服のポケットから取り出して、靴の中に無理矢理押し込んだ。さぁ飛ばなきゃ。 いざとなると、考えることって多いんだね。人間って。今までの記憶、嫌なこと良かったこと関係無しに、ぐるんぐるんと。流れてくる。流れ込んでくる。ああ、恥ずかしさと怒りと孤独、そしてわずかに懐かしさ。これが走馬灯ってやつなのかな。さぁ飛ばなきゃ。 息を大きく吸って、吐いた。じわ、と脇の下に汗を掻いていることに気がつく。ああ、あたし、普段は成績優秀の優等生で通ってるのに、どうして今日はこんなにうっかりで恥ずかしいことばっかりしてるんだろう。汗って司法解剖とかした時、掻きすぎてたら汗っかきって言われるのかな。さぁ飛ばなきゃ。 あたしはぐ、と再びフェンスを握り締めた。体を前へと傾ける。さぁ、この手を放したら、あたしあの世行きだよ。そんな微妙なあれは、結構、心臓を無駄に拍動させる。さぁ飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。じり、じり、と指を離していく。手の平は汗でぬるぬるしてるから、この調子だとすぐにまっさかさま? ああ、飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。飛ばなきゃ。 「――飛ぶんなら早く飛びな」 ふいに耳元で響いた声に思わずフェンスを握りなおしていた。 反射的に振り返ると、フェンスの頂上に影。逆行で見えなかったけれど、細身の。 若い男だった。次の瞬間には隣に立っていた。引いているあたしには気がついていないのか、それとも気にしないタチなのか、ぐい、と顔を無理矢理近づけて唇を歪ませて笑った。「何だよ、結局、死なないのか」 顔立ちはニホンジンだった。しかし、目や鼻や、さまざまなところが細く鋭敏で、まるでナイフみたいな印象を受ける男だった。もちろん、そんな容貌だったから決して美形ではない。そして、細い目のさらに奥にある瞳は限りなく白に近い灰色。そう、それがニホンジンだとあたしにわざわざ認識させる必要があった原因だったのだ。 「あんた――」 誰? あたしの問いは当然だったと思うのだけれど。男は鼻で一笑した。「なんだつまらないな。自分で死を選ぶなんてアホだから、もっと面白い言葉が聞けると思ったのに」 スルーかい。 あたしはムッと唇を尖らせた。「何ソレ。わけわかんない」 「お前知ってるか。自分の意志で死を選ぶ動物ってのは、人間だけなんだぜ? 他の動物は一身上の理由では遺伝子的に自殺はしないようにプログラムされてる。遺伝子ってのは基本的に完璧に組まれてるはずだ。だってそうだろう? 蟻は甘いものに自然にわくように群がってくるし、ライオンは草食動物を追い掛け回す。動物は食べ物を食べるとうまく活動できるし、もちろん排泄物だって必要だ。こんなにうまくできている仕組みはそうはない。そのプログラムは完全だ。つまりそのプログラムに従って生きている動物は完全だ。ということはだ。そのプログラムに逆らって生きている人間は不完全な動物だということができる。一番高い知能を持つ動物が一番不完全なんだぜ? フン、笑わせてくれる」 「だから――」 ナニ、こいつ。意味わかんないし。ていうかキモイ。 男は喉の奥で笑って、それからさぁ、と言った。「続きをドウゾ?」 「そんなこと言われてもできるわけないじゃない」 「じゃあなにか? お前は死にたくないんだ?」 「死にたい。死にたいよ。でも、あんたが邪魔しに来たんだろ」 「別に? 俺は邪魔する気なんてないし? というか、本気で死ぬ気なら、邪魔する、しないは関係無しでとっくに飛び降りてるだろうが」 「るっせぇな!! 黙ってろよテメー!!」 「赤とは血潮、熱さを孕む生の色なり。青とは静寂、眠りを孕む死の色なり。紫とはその狭間だ。生と死と、両方が満遍なくまざりあった一筋の道なり。それは境界線だ。お前は今そこに立っていた」 「黙れっつってんだろうが!!」 あたしは男の襟元を掴んだ。男はあたしと同い年くらいのくせに真っ白なワイシャツに黒い押しズボン、そしてピカピカの黒い革靴というカッコウをしていたから、あたしの力の勢いにワイシャツのボタンが弾け飛んだというわけで。 「……まさか、見える聞こえるだけでなく、触れられるとはな」 なぜかヒュウ、と口笛を吹いてニヤと笑った。背はそれほど高くない。あたしは勢いあまってグラッとバランスを崩してしまって、駐車場の方へと体が傾く。 「あ……」 死にたくない。 死にたく、ない……。 「いやぁああああああああ!!!!」 次に気がつくとあたしはコンクリートの床に寝かされていた。網膜に青が突き刺さって眩しい。風がざあっと肌を撫でて、小さくくしゃみが。ああ、生きてるんだ結局のところ。 「――ふぅん、孤独死ね……」 声が。また。あたしは思わず跳ね起きて辺りを見回した。求めていた姿はまた、フェンスの上にあった。細身の、漆黒を感じる鋭い影。 「あんたっ……!!」 「ああ?」 男はあたしを見下ろして、唇を軽く歪めた。「起きてたのか。ご気分はいかがかな、お嬢さん」 「サイアクだよ誰かさんのお陰でね」 吐き捨てた後、少しだけふらついて。上から笑い声が降ってきた。「おっと、あんま動かない方がいいんじゃないか。人間ってのはショックで死ねる弱い生き物だぜ?」 「ウルサイ!」 何だか裸を見られているような見透かされる目はとても恥ずかしい。あたしは思わず顔を赤らめる。結局のところ、あたしはどうやらこの男に助けられたらしい。それはまぁいい。だが、問題なのは落ちそうになった直前、自分自身で感じ取ったことだ。 どうして。あたしはあんな思いをして、ここまで、気持ち的にも肉体的にもやってきたのに。それでもまだ生を渇望している? でもやっぱり人間はぎりぎりまで、生物はぎりぎりまで自分を生かそうとするものだから、だからそういう意味では男の言った『完全な』プログラムには多少まだ身を置いているらしい。でもまだあたしは『不完全』になりたいのだ。 さぁ、飛ばなきゃ。 あたしはまた黙って、フェンスを乗り越え始めた。 「ああそうか、どうしても飛ぼうって魂胆か」 くっくっと笑っているのが聞こえる。ウルサイ。黙ってろ。キモイんだよ。 「『お父さんもお母さんもあたしのことなんて、本当はどうでもよかったんでしょ? そんなどうでもいい子供だったら、生まなければ良かったのに! あたしはだから――』」 「きゃぁあああ!!!」 あたしは聞き覚えのあるフレーズに思わず顔に血が上るのを感じた。そして、男が持っている白い紙に目が釘付けになる。「ど、どうしてあんたが持ってるんだよっ!?」 「ナニが?」 「あたしの遺書だよ!!」 「え? ああ――」 男はにやっと笑った。「だってそこ置いてあっただろうが。見ろってことだろ」 視線をやった先はあたしの靴が並べてあるところで。そうだよ、確かにあたしは靴と一緒に遺書を置いたよ。 「でも読むことないじゃん!!」 「何だ? じゃあお前は自殺した後、誰にも遺書を読まれたくないのか?」 イライラする。「んなもん詭弁だよ!!」 物心ついた頃から父と母は家に居なかった。あたしは小学校も、中学校も、家を出るのも帰った時もずっとひとりだった。机の上にはいつも5000円札と短いメモ。テレビが一晩中付いていて、することもなくて勉強ばかりしていた。良い成績を取れば、もしかしたらあたしのことを見てくれるかもしれないって、そこにはそんな汚い打算も働いていたけれど。 結局はなにもなくて、ただもうあたしは耐え切れなくなっていた。人間はショックで死ねる弱い生き物だと、この男は言ったけれど、人間は孤独でも死ねるに違いない。もうどうしていいのか、わからなくなった。だから、死ぬことにしたんだよ。 言い返しながら、どうしてあたしはこんなヤツに構っているんだろう、とふと思った。こんなヤツ、シカトしてさっさと飛び降りれば良いのに。そうだ。そうしよう。 「なぁ、マジで飛び降りるのかよ?」 「うっさいなぁああ!! 止めるな!!」 「ハァ? ナニを勘違いしてる? 別に俺はお前が死んでもどうでもいいんだよ。ただ――」 男はフェンスを軋ませて、優雅に足を組替えた。「もしこの高さから落ちて、打ち所が良くて生き残ったらどうするんだ?」 「……え?」 「お前は遺書を残し、靴を残し、万全の体制でこの状態になっている。だが、そこでお前が生き残ってみろ、恥をかくのはお前だぜ? 死ぬなら完璧に、美しく死なないとな?」 ま、俺はどうだっていいけど。 「どうしろって、言うわけ……?」 男はきょとん、としたが、すぐに唇を歪ませて自分のふところに手をやった。そして黒い塊を取り出してあたしに放った。「特別だ。貸してやろう」 「なっナニ……? きゃぁああ!!」 慌てて受け止めた。しかし、それが何かをはっきりと認識した瞬間、あたしはガシャン、とそのブツを取り落としていた。美しいフォルム。金属の重い感触。あたしの手にはあまりある狂気で凶器。それは、銃。拳銃だった。 「やはり、お前なら触れられると思っていたがな。なるほど、俺が見えるのも聞こえるのも、お前が紫の境界線に立っているからなんだろう」 ぽん、とフェンスから飛び降りて。あたしの方に近づいてきた。「それなら確実だぜ? こめかみに当てて、一発ズドン」 そして、自らのこめかみに指をピストルの形にして当てた。ズドン、と口で言った。楽しそうに。 「じょっ冗談は――」 「……冗談?」 心外だ、というように男はあたしから拳銃をさりげなく取り返した。そして、頭上を偶然通りかかったカラス。それに狙いを定めて、撃った。 轟音が聞こえたのとカラスが目の前に落ちてきたのはほぼ同時で。あたしは思わず腰を抜かしていた。カラスはビクビクと痙攣を起こして、でも血は一滴だって出ていない。ナニ、これ……? 「さぁ、さっさとケリをつけろよ。このままお前が死ぬか、生きるか、こいつにかかってるんだぜ」 再び差し出された。あたしは、手を伸ばせない。どうしてだろう。こんなに簡単にも死ねる道具が、それが例え、普通のものじゃなくたって、こんなすぐ目の前にあるっていうのに。受け取って、それで撃ってしまえばこんなに楽なことは無いのに。 なかなか受け取らないあたしに、男はふと思い出したようにああ、と言った。「――そういや、目の前で自殺しようとしている魂を止めなければ、俺が処罰されるんだっけ」 魂? 処罰? しかし、狐のような男はあたしの疑問には決して答えないだろう。拳銃を、今度は自分の手に構えて(それはひどく馴染んでいるように見えた)、それからにぃっと奇怪に唇を歪めた。限りなく灰色に近い糸のような目が自然、細くなった。 「――仕方がない。俺が殺してやろう」 「ちょ――」 あたしは思わず後ずさった。「ちょっと待ってよ!!? そんなことしたら、あんた殺人罪で掴まるって!!」 「いや、俺はつかまらないさ。死神だからな」 「死神って、いやもうホント意味わかんないから!!? や、マジで何これ!!?」 「魂休界中央府議会で定められている死神律・第13章に自殺をしようとしている魂に出会ったらなんとしてもその自殺は食い止めなければならない、とある。食い止めないと爵位の剥奪、もしくはそれに相当する処罰が加えられる。まれに見る重罰さ。俺はまだまだ楽な暮らしがしたいんでな。そして、俺にはお前を止めるような義理なんてない。面倒は避けたいタチなんだ。いちいち説得なんてしてられるか。七面倒臭い。だったら罰を避けるためにはどうすればいい?」 男はジャコ、と銃の撃鉄を上げて微笑んだ。「だったら、自殺をさせなければいい」 「どっどういうこと……?」 何か、とてつもなく、嫌な予感が。男は傲慢に言い放った。 「さっさと飛び降りな。お前が地面に叩きつけられて死ぬ前に、俺が直々にお前を撃ち殺してやろう」 あたしは絶句した。 「さっ最低……!! あんた最低!! 何なんだよこの人間のクズ!! う○こ野郎!! ナニ考えてるんだよ〜〜〜〜〜っっ!!」 「何とでも。俺は死神だぜ? 最高の褒め言葉だな」 さぁ、飛び降りてもらおうかお嬢さん。お前、死にたいんだろう? 男は軽く首を傾げてあたしの方へと近づいてくる。 「嫌!! 来るなヘンタイ!! 警察呼ぶぞ!!」 「問題ない。俺の姿は常人には見えないんでな」 「……たくない」 あたしは無我夢中になって叫んでいた。「死にたくない!! あたし、死にたくないよ……っ!!」 どうして。どうしてこんな今さらになって。寂しいとか、悲しいとかよりももっともっとたくさん、嬉しいを思い出してしまうのだろう。 例えば、5歳の時、お父さんとお母さんに大きなケーキを買ってもらって誕生日を祝ってもらったことだとか、短いメモの中にちょっとしたあたしへの気遣いが入っていた時だとか、高校に合格した時に疲れているのに一生懸命あたしに話し掛けてくれてきたりとか。時々はひどく鬱陶しく思えるようなことが、どうしてこんなにもあたしを暖かく包み込んでくれるのだろう。 学校の友達、近所の仲良しの犬、ちょっと気になる人。そんなものが色とりどりの風になってあたしをここへと縛り付ける。あたしは行けない。逝けないんだ。 気がつくと両頬は涙に濡れていた。ただし冷たくはなくって、ひどく、優しくて暖かいものだった。 「なるほど、それがお前の選んだ答えか」 男はいつのまにか拳銃を閉まっていた。そして、身構えるあたしには頓着せずに、ゆっくりと近づいてきた。「生きるがいいさ。思うようにな」 あたしの頬に手をやった。冷たい、手。心なしか、男の姿は薄れているように見える。 「また会えるといい、なんて言わない。俺は死神だからな――」 薄い唇を歪めた。この時だけは、あたしは彼を信じられる。ふ、と鋭い顔が目の前に近づいてきて、限りなく灰色に近い瞳があたしを映した。唇に冷たい感触が当てられた。少しの間、口を塞がれて息苦しかった。ぷは、と息をついたら、色気が無いなぁ、というようににやっと笑われた。「祝福だ。今さら返す、ってのは無理だぜ?」 「ちょっと待って。あんた、名前は?」 「俺か? 俺は――」 しかし、次の瞬間にはその姿は掻き消えていた。あたしは行く先を確かめなかった。だって、もう会えないことはわかっていたから。 ふと、あたしを呼ぶ声がした。それは聞き覚えがあるもので、とても懐かしくて、とても、とても望んでいたもの。あたしは振り返った。そして、それはやはり思わず目頭を熱くさせた。 「お父さん、お母さん……?」 空を見上げるともうすでに辺りは漆黒に包まれようとしていた。それはまるで貴族が羽織るようなマントのようにも見えて、夢のようにあたしを切なくさせた。 Fin.
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