海の底で泣く人魚姫

 ねぇ、どうして海の水はしょっぱいの?
 あら、坊やは大声で泣いた時、自分の涙が口に入った事はないの?
 ……涙はしょっぱいでしょう?
 海の水はね、昔々に神様が流した涙が溜まったモノなのよ――……





 小さくて丸み帯びた透明な石。
 観光客で賑わう大通りの隅で、それは静かに日光を反射していた。
 興味を持って近付いてみれば、小さな目をした男が座り込んでいて、それを観光客に売って稼いでいる様だった。
「ねぇ、おじさん。コレ、何?」
 少年が思い切って訊いてみると、男は小さな目を細めて言った。
「コレか?綺麗だろ。ここの海底で採れるんだ。何なのかは知らねぇ。ただの硝子玉だと言うヤツがいれば、 何か新しい鉱物だって言うヤツ、真珠か珊瑚だって言うヤツすらいる。説はごまんとあるがなぁ、俺はコレが人魚様の涙なんじゃないかと思ってる。 この街を見てみろ。年中観光客が押し寄せて、こんなにも活気に溢れてる。知ってるだろ?ここの海には人魚がいるからだ。昔からこの辺では人魚が目撃されてる。 皆考える事は同じさ。人魚に会いたい、そう思ってやってくる。実際会ってるヤツもいて、それが更に拍車をかける。 だから俺はここで人魚姫の涙(このいし)を売ってる訳さ。どうだ、坊主?」
 ようやく喋り終えた男は、じゃら、と石を掴んで何粒か少年の手に落とした。
「……良いよ、買う。僕もね、人魚姫に会いに、この町へ来たんだ」
「へぇ、そうかい。……よし、坊主には特別におまけだ。10粒分の値段で15粒売ってやる。ほら、持ってけ!」
「どうも」
 硬貨を渡して去ろうとする少年の背中に、男は、頑張れよ!と叫んだ。


「頑張れよって言われちゃった……」
 少年――レオの掌の中では、今買った石が、歩く振動に合わせてころころと転がっていた。落としてしまわない様に強く握り込む。
 レオは今日、人魚に会いに来た。それも、ただ会いに来た訳じゃない。再会だ。
 そう、レオは5年前に一度、人魚に会って約束したのだ。
『あたしの20歳の誕生日に、また会いましょう』
 その約束の日が今日だった。彼女の誕生日。
 レオは日の沈みつつある海に向いながら思った。
 早く、沈みきってしまえ太陽。
 レオは、その瞬間が訪れるのを焦れる思いで待っていた。白い砂浜に座り込んで、さっき買った石を1粒摘まんで玩んだ。
 そうだ、この石をプレゼントしよう。おじさんの話を聞かせてあげたら、きっと笑ってくれる。
 ぼんやりとそんな事を考えていたレオの目の前で、ゆっくりと沈んでいたはずの太陽は、いつの間にかその姿を、海の中に隠してしまっていた。
 それでも尚、紫色の空は明るい。
 ぱしゃ。
 その水音に、レオはびっくりしたみたいに急に立ち上がった。
 さらりとした砂が服から滑り落ち、掌からも石が何粒か零れて、無音な海に微かな音を残した。
「……ジュリア?そこにいるんだろ?」
 レオは、内緒話をする時の様な小さな声で大きな岩にむかってそう言った。
「えぇ、いるわ。もちろん。レオ……。良かった、来てくれたのね」
 その問に答える声は女性のもの。笑い声をあげて顔を覗かせたジュリアに、レオは懐かしさと違和感を感じた。 ジュリアに会ったのは、もう5年も前の事で、15歳だったジュリアの面影もそこそこに、美しい女性になっていたからだ。
「どう?あたし、綺麗になったでしょう?……だって5年も経ったんだもの。誰だって変わるわ。レオ、貴方も凄く格好良くなった。 ここに集まるサーファーなんかよりよっぽど良いわ」
「……有難う。うん。すごくキレイだ」
 レオはそっと、自分よりのずっと低い位置にあるジュリアの肩に触れた。彼女は、下半身が魚のものであるが故に、陸に立つ事の出来ない身体だった。 波打ち際に座るジュリアの肌は、海の中で生きる者だからなのか、白く透明感があり、冷たかった。
 気温も徐々に下がり、海水もかなり冷たくなってきているだろう。
「ほら、見て。コレ“人魚の涙”って言うんだって。この海の深ーい所に沢山あるって聞いたんだ。本当なの?」
 目の前に広がる暗く蒼い海を眺めながらレオは言った。そこにジュリアも住んでいるんだ。
「…えぇ、そうよ。人が滅多に来ない様な深海の底にそれはあるわ。そこではもう、砂よりもその石の方が多いのかも、って位。コレを人は“人魚の涙”って呼ぶの?」
 僕の掌に、ジュリアの白て細い、冷たい指が触れて、中でも一際大きな石を持っていった。石は、どれもほぼ完璧な球状だったが、大きさは小指の先程から金貨サイズまでまちまちだった。
「…いや。この石を売っていたおじさんがそう言ってたんだ。他にも硝子玉だ、とか、新種の鉱物だ、って言われてるらしいよ。でも、実際何かは分かってないんだってさ。ジュリアはどう思う?」
「そうね……人魚姫に恋をした王子様がその人魚に送った宝石ってところじゃないかしら?」
「ふぅん……。僕もコレ、ジュリアにプレゼントしようと思って買ってきたんだけどなぁ……。他の姫へのプレゼントなんていらない?」
 くりっとしたジュリアの瞳が少し見開かれた。
「くれるの?ホントに?わぁ……凄く嬉しいよ?だって、レオが何かくれるなんて思ってなかっ……」
 ぽろぽろ、とジュリアの瞳から涙が零れた。涙の粒がジュリアの頬を転がり落ちていく。
「え、ジュリア?!どうしたの……?」
 泣き出したジュリアに驚いてしゃがみ込むと、抱きつかれた。ドキドキしながらもレオは、真っ赤な顔でそっと、抱きしめ返す。そして、涙を拭いてあげようとして、気が付いた。
 ジュリアの頬は全く濡れていない。
「ジュリア……?」
 それでもジュリアの扇形の睫毛の下からは、涙が溢れ、珠になって転がっていく。……それは本物の人魚の涙だった。透明な石がジュリアの瞳から転がり出てきていた。
「あのね、女の人魚は20歳になったら、自分の声を捨てて人間になるか、二度と人間には近付かないか、決めなきゃいけないの……。人魚には人魚の暮らしがあるもの。あたしはね、レオ。人間になりたい。……貴方と一緒にいたい。でも、あたしには出来ないわ。貴方が好きだから……。あたしが人間になる時、あたしが恋をしている貴方からあたしが人魚だった時の記憶が消えるの。それは人魚が人間になる時の絶対の約束。 それでも、多くの人魚達は、自分の声と愛する人の中の自分の記憶を犠牲にして、人間としての身体と愛する人の隣にいれる権利を得たわ。 けれど、“喋る事の出来ない知らない女性”でしかなくなった彼女達の多くの恋は、叶う事無く終わっていったの……。あたしはそんなの嫌。 貴方に愛されないのなら、今日この海の底で死ぬわ」
 ジュリアは自分の涙をレオの手に乗せた。小さな丸い透明な石。
「ほら見て。“人魚の涙”。コレが沢山ある所、それはそこで沢山の人魚が泣いたって事。そこは人間に恋をした人魚姫達の墓場よ。 ねぇ、人魚が泡になって消えるって聞いた事があるでしょう?アレはね、泡じゃなくて石になるの。だから金貨位の大きさの石もあるわ。
 あたしもこれから、そこに行ってこの石になるの。ゴメンね……?レオ。 でも、貴方を信じてない訳じゃないわ。あたしが臆病だから……。そんなあたしを怒る?それでも良い。けど、忘れる事だけはしないでね。あたしの涙だけは捨てないで……」
 ちゅ、って音をたてて、ジュリアはレオの額に触れるだけのキスをした。
「バイバイ、レオ」
 優しくレオの胸を押して彼の腕から逃げると、そのまま背を向けた。ちゃぷん、と冷たい水の中に身体を沈める。視界の隅にレオの腕が伸びくるのが見えた。
 その腕はただ、海水を、白い砂を、掴んだだけだった…。
 水は、とても冷たいはずなのに、レオは、それがぬるい、と思った。レオの手はそれほどまでに冷たくなっていた。その拳が小さく震え、砂が、ギリ、と軋んだ音をたてた……。