雨の中…… 雨は、お昼頃から降り続いていた。自分しかいないひんやりとした部屋に、雨音だけが忍び込んでくる。 サラサラと音が聞こえてきそうな雨。今は風もなく、ただ、真っ直ぐ静かに、空から落ちてきていた。時折、悪戯する様に窓を叩く程度で、夕立の様な荒々しさはない。 そんな穏やかな雨に、このまま外へ飛び出して行きたい衝動に駆られる。こんな暗い夜に、外を歩く人などいないだろう。ならば、人の目を気にする事なくはしゃいでみても良いのではないか。冷たい神の涙に、汚いモノを全て洗い流してしまおう。 枕元のスタンドライトが部屋をぼんやりと明るくはしていたが、その柔らかなオレンジ色を、光は暖かいとは思わなかった。何処か、心の内が冷え切っていたからだ。きっと、雨を冷たいとも思わないだろう。 雨音に、憂鬱になっていく自分がいる。胸に水溜りが出来ていく様な感覚に襲われ、膝を抱えて窓の外を見た。 ガラスがオレンジ色に反射して見難いが、暗闇に慣れつつある光の目には、黒い風景がはっきりと映し出されていた。密集して並ぶ家々。どの家にももう明かりはなく、皆寝静まっているようだ。そこに色を添えるのは、遠くに見える、一定の間隔で変化する信号と、街灯、自販機、それに濡れて鈍く光るアスファルトだけだった。 「ぁ……」 そんな、アパートのすぐ脇の道路に、スーツを着た男の人が手ブラで立っていた。何も持っていないのだからもちろん、傘も差していない。動く事もなく、そこに立っている。暗いし遠いので、はっきりとは分からないが、濡れていない訳がない。きっと全身びしょ濡れになっているだろう。 あぁ、何やってんのかな。 水溜りから湧き上がる、興味と親近感。きっとあの男の人も何か流してしまいたいモノがあったんだ、と光は思った。スーツを着た男性。彼は一体何を雨に流してもらっているんだろう。 光は雨に濡れる彼を観察する。 30後半だろうか。光よりもひとまわりは年上に見える。細身で背が高い。それに、髭を生やしているらしい。 ……無精髭だったら嫌だな。っていうかストーカーとか変な人だったらどうしよう。ぁ、でも、雨の日にそれはないかな。 カーテンの隙間から、光は彼を見守っていた。……もしかしたら、そこからライトの光が漏れていたのかもしれない。外は真っ暗なのだから、こんな小さな明かりでも目立ってしまったのだろう。彼は、突然顔を上げた。目が合う。一瞬見えた、彼の驚いた顔。 「び、っくりしたぁ……」 光は、カーテンを閉め切っていた。驚いたからか、胸がドキドキする。水溜りなんてとっくに蒸発した。 あれは絶対気付かれたよね。 明かりを消してから、もう1度、カーテンをほんの少しだけ開けて覗いてみた。男の人が、まだこっちを見ている。 暗い色をした瞳。あの人は、絶望の中で何かを待っている様な気がした。それが何かは分からないけれど、きっと、とても大切なモノ。あのままじゃ皆洗い流されちゃいそうだ。 急いでベッドから抜け出た光は、ビニール傘――百均で買ったピンクの傘だ。割と気に入っている――とバスタオル掴んで階段を駆け下りた。外は思ったよりも寒かったけれど、全然気にならない。そ、とアパートの影から様子を伺う。男の人は、またぼんやりと立っていた。 「ねぇ!」 光の声を聞いてこっちを向いた彼に、何をしてるの、と訊いた。 「今日は大好きだった人の誕生日だったんだ。もうとっくに別れたんだけど。それに、引っ越してしまったらしい。郵便受けが、違う人の名前になっていた。……君がさっき窓から覗いてた子?」 あぁ、やっぱり彼は大切なモノを待っていたんだ。 「ぁ、やっぱり気付かれちゃってました?」 尚に差し出されたバスタオルを有難う、と言って受け取りながら、彼は疲れた様な笑いを返した。自然と、口元に目が行く。無精髭ではなかったらしい。その髭と、汗みたいに光る雨粒が、彼のイメージをよりワイルドなものにさせる。 「……じゃぁ君が夏目光―なつめひかる―なのかな?」 「え……?」 「違った、かな。……気にしないでくれ。勘違いだ。君の部屋、彼女がいた部屋だったと思ったんだ。……本当は、窓に浮かび上がる君の影を見て、彼女が俺に気付いてくれたんだと思った」 そんな事あるはずないのに、と彼は寂しそうに笑う。 「そうなんですか……?ぁ、えっとあたし、“みつ”なんです。光って書いてみつって読むの。あと、よく間違われるんで別に良いんですけど、“なつめ”じゃなくて“はだめ”。夏目光―はだめみつ―です」 「そうか、変わった読み方をするんだな。郵便受けで名前を見て、今まで男かと思ってたんだ。でも実際は優しくて可愛いお嬢さんじゃないか。夏目光ちゃん、ね」 くつくつと喉を鳴らす彼に、光は顔を赤くしてそんな事全然ないです、と首を振った。 「光ちゃん、て言い難いですよね?あたし普段“みっちゃん”って呼ばれてるんでそう呼んでもらっても良いですけど!……あ、やっぱり駄目です。呼び捨てにして下さい。そっちの方がマシです」 「どっちでも良いだろ。じゃぁ俺の事は隆志―たかし―と呼んでくれ。名字は五月一日と書いて“さつき”と読むんだ。こっちも変わってるだろう?五月一日隆志―さつきたかし―。……名前が2つあるみたいじゃないか?」 「えー、格好良いじゃないですか!あはは。でも漢字6文字だなんて名前書く時とか大変そう。記入欄からはみ出ません?……じゃぁあたし、さつきさんって呼びますから」 「隆志って呼んでくれって言っただろ。さつきなんて女みたいだ」 「さつきさんなんかあたしの事男だと思ってたんでしょ?そのお返しです」 いー、と歯を見せて光が笑うと、隆志は溜め息をついて濡れた髪を掻き揚げた。同年代の男には気障っぽくしか見えない仕草が、とてもサマになって見える。光の身近にはいないタイプだ。歳で言えば、1番近いのは従兄弟の一昭兄さんだが、彼は飲んでばかりいて、就職出来たとしてもすぐに辞めてしまう様な男だ。比較にならない。 その時、光は隆志の目が僅かに赤くなっているのに気が付いた。 「あれ、さつきさんて、さっきまで泣いてました……?」 「泣いてないよ」 「即答するなんて怪し過ぎですよ。目だって赤いし。寂しくて泣いてたんでしょ?」 そのまま隆志の顔を覗き込む。目尻の辺りがうっすらと赤く滲んでいた。 「……泣いてないって言ってるだろ。きっと雨のチリでも入ったんだ。そんなに心配してくれなくても良い」 「別に心配してなんかないですけど。別にどうなったって知りま―――」 隆志が笑って、光の頬にキスをした。 「な、ななっ。ちょ、さつきさん!何するんですか!!」 こしこしと手の甲で擦る。光は、頬が少し痛いのと同時に、熱く感じた。それは決して擦ったせいだけではないだろう。きっと隆志の目には、両頬を同じ位赤くした光の顔が映っているはずだ。 「照れちゃって可愛い。お礼、かな。タオル貸してくれた」 「ふざけないで下さい!やっぱりさつきさんは変態だったんですか?哀愁漂わせて油断させたんですね?酷いです」 もちろん冗談だと分かっている。光は隆志にからかわれているのだ。 それが面白くないみつは、隆志と目が合いそうになって、ぷいっとそっぽを向いてしまう。 光の赤くなった頬に、隆志の右手が触れた。あまりの冷たさに、びくり、と身体が震えたが、熱くなった頬に、それは心地良かった。 「悪かったよ。そう怒らなくても良いだろ?ほら、そんなに擦らない方が良い。……訊きたいんだけど“やっぱり”って?もしかして俺の事ストーカーか何かだと思ってた?」 「ぇ!何がですか?知りませんよそんなの。っていうか“やっぱり”なんて言ってないと思いますけど。気のせいじゃないですか?聞き間違えですよ」 「即答するのが怪しいって言ったのはどっちだ?俺じゃない。みっちゃんだ。そうだろ、みっちゃん?それにベラベラ喋る所が余計怪しいんだよ」 光はますます真っ赤になって言った。 「呼び捨てにして下さいって言ったじゃないですか!恥ずかしいから止めて下さいっ。ハイそうですー、ストーカーか何かだと思いましたー。そうだったらどうしようかなー程度ですけど!もう良いでしょう?」 「さぁ?じゃ光は変人かもしれないヤツにタオルを?……優しいって言うより馬鹿なんじゃないか?俺がお前のストーカーだったらどうする?襲うぞ?」 「それ位の区別は出来ます!何でそんな事ばっかり訊くんですか?もうさつきさんなんか知りません。傘あげますから帰って下さいっ」 ぐい、と隆志の胸にビニール傘を押し付ける。 また何か言われるのか、と光は思ったが、隆志は素直に傘を受け取った。ばさ、と耳音で音がしたかと思うと、視界は零になった。 「きゃ……」 隆志が肩から羽織っていた光のバスタオルを、頭から被せられたのだ。僅かに湿っていて、雨の匂いがする。 「何するんですか」 髪がボサボサになっちゃったじゃないですか。 「止めて欲しかったら隆志って呼べよ。……傘、借りてく。晴れたら返しに来るから」 バサ、と傘を差して、隆志は帰ろうとする。傘の色はピンクだ。本人はあれでも格好つけているつもりだろうが、くすりと笑ってしまうおかしさがある。 「また来る気なんですかー!」 大きな声で言ったつもりだが、何をどう聞き間違えたのか、隆志は背を向けたまま手を振った。 隆志の背中はだんだん小さくなる。けれど、ピンクの傘だけはいつまでも雨の中に見えていた。 雨は、昨日のお昼頃から降り続いていた。 けれどきっともうすぐ晴れるだろう。雨も幾分小雨になった様だ。 今日の天気を調べよう、そう思って光は、丸めたバスタオルを手に部屋へ戻る。 多分すぐにでも隆志は傘を返しに来てくれるはずだから。
|