夏の夜の夢

『おお、運命の女神たち、私のところにきておくれ、
 ミルクのような白い手を血のりに突き入れておくれ、
 鋏をもってこの人のいのちの絹糸を切った手を。』


   夏のの夢


 背中がじんわりと汗ばんでいた。
 日が落ち始めようというのに、追い討ちをかける様なセミの鳴き声が、ジリジリと僕の鼓膜を震わし、不快指数はピークに達しつつあった。
 そう、彼女を再び目にするまでは。



 そもそも、僕がこうして夏木立の中1人座り込んでいるのもその為だったのだ。
 彼女―――都綾里―みやこ あやさと―が僕の知らない男と、この木立へと入って行くのを放課後の教室から見たからだ。
 だからと言って普通、こっそり付いて行く様なマネをするか?……Noだ。だけど僕は―――。
 そんなの、ストーカー紛いである事も、変態のする様な事であるのも重々承知の上だ。それでも僕は気にせずにはいられなかった。
 それは多分、僕が綾里を好きだったからなのだろう。
 だから僕も、2人を追って木立に入った。

 木立とは言っても、自身の身を隠せる様な所などそうはない。2人の会話を何としてでも聞きたいと思いながらもそれ以上に、見つかる事の方を恐れ、僕は2人がギリギリ見える程度の場所に身を潜めた。綾里の高い声だけが細々と聞こえてくる事もあるが、2人が何を話しているのかは杳として知れない。伝わってくるのは綾里の必死さ、ただそれだけだった。
 やっぱり、告白……してるのかな。
 木の幹に寄りかかり、僕はぼんやりとした絶望に襲われていた。
 ……そうしている間にも、話は進んでいる様だった。だけど、何処か様子がおかしい。綾里が泣き出したのだ。
「綾里……」
 何だ?分からない。きっと僕の未発達な脳ミソは状況を理解するには至っていないからなのだ。あの男は綾里を振ったのか?とにかく僕のその頭の中は、あの男が綾里を泣かせたという事実でいっぱいになっていた。
 あまりの怒りに頭が白く霞んでいく。
 だから僕は、帰ろうとする男と、それを追いかける綾里を見ても、とっさに反応する事が出来なかった。
 はっとして、慌てて追ったが無理だった。元々かなり距離を置いた所から覗いていたのだ。出遅れてしまっては、もうどうしようもない。
 僕は、木の幹に背を預けたままずるずると滑り降り、そこに座り込んだ。
 木陰だというのに、体感温度はちっとも変わらない。ただ、汗のせいで背中に張り付く制服の開襟シャツと、耳に焦げ付く様なセミの鳴き声が不快だった。

 僕は綾里を愛している。それなのに綾里の心は小指の先程ですら僕のモノではなく、彼女はあの男を愛しているのだ。彼女の事を何とも思っていない、彼女を泣かせる様な冷酷な男に!
 あぁ、何故オーベロンは僕を憐れんではくれないのか。
 あまりの暑さと絶望に、僕はおかしくなってしまったのだろうか。その時思い出したのは、最近授業か何かで読んだ、劇の話だった。
 涙に濡れる綾里の両まぶたに、赤い花の汁を注いでくれたら良かったのに。
 ガサ。
 その瞬間、僕は無になった。
 背に感じていた汗とシャツ、そして木肌の感覚、頭蓋を震わす様だったセミの鳴き声。それら全てが一瞬にして僕から消え失せ、静寂の中、夏の熱は冷え切った。
 身体中が目になったみたいに、僕の視神経全てが一点に集中した。
 綾里だ。綾里が1人、帰って来たのだ。あれからどれだけの時間が経っていたのだろう。綾里は既に泣き止んでいて、赤くなった目を隠す様に、伏目がちで睫毛を震わせていた。
「綾里」
 僕は立ち上がって彼女に声をかけた。
 その声に初めて僕に気付いて目を見開いた彼女は、僕に背を向けて言った。
「雄瀧―おだき―君?びっくりした。そんな所で何してるの?」
「……ごめん。僕見てたんだ、さっきの。綾里が―――」
 それ以上言わないで、という風に綾里は首を振った。
「もう良いの。だから……誰にも言わないでね、雄瀧君」
 ごめん、と僕は再び彼女に謝った。
「でも、綾里は本当にそれで良いのか?あの男に泣かされたままで」
 僕のそんな発言に、綾里は振り返って瞠目した後、痛そうに笑った。
「雄瀧君は優しいんだね」
 質問とは関係のない答えだった。しかも誤答だ。
 僕はちっとも優しくなんかないよ。口で綾里を気遣う様な事を言ってたって、心の中では綾里が振られた事を、自分でも醜いと思う程に喜んでいるんだから。僕は感じていたんだ。泣いていた綾里を見て、あの男への怒りだけではなく、暗い歓喜に打ち震えていた自分自身を。
「綾里……」
 僕は木の側を離れ、綾里に近付きながら小さな声で言った。
 君が好きだ、と。
「え……?何……」
「僕は綾里が好きだ」
 今度ははっきりと声に出して言った。動揺を隠しきれないのか、綾里は顔を赤く染めて俯いた。
「そ、そんなあたしを慰めようとする様な冗談やめて。全然笑えないよ……。本気にしちゃうじゃない」
「僕は本気だよ。君の事がずっと好きだったんだ。だから綾里が、あの男とここへ行くのを見て、ついて来たんだ。じゃなきゃ今日みたいな暑い日にこんな所、誰も来ないだろ。そして僕はここで―――君が告白して振られるのを見た」
 綾里はまた泣きそうな顔をして、僕を見ていた。
「さっき綾里は言ったよね。僕は優しいって。……そんなの、勘違いだよ。僕はちっとも優しくなんかないんだ。ズルイ人間なんだよ。だけど……それでも僕は綾里が好きなんだ」
 長い睫毛の下からまた涙が零れていた。ほんのり赤く染まったままの頬を伝うそれを、綾里は拭う事もせずに、僕に笑いかける。
「有難う……」
 それはやはり、答えではなかった。
 綾里は僕に再び背を向けて、涙を拭った。
「じゃぁあたし、今日はもう帰るね」
「ぁ、うん。……綾里、明日またここで会えるかな?」
 綾里は笑って、バイバイ、と僕に手を振った。
 それは多分、また明日、という意味のはずだった。

「お、だ……く――」
 もう寝ようかと電気を消す。けれどもその時、誰かに呼ばれた様な気がして、僕は2階の自室から下を覗いた。
「雄瀧くーん」
 大きくはないけれどよく通る声で、綾里が僕を呼んでいた。学校の制服を着た格好のまま、僕に手を振っている。
 何故綾里がここに?
 そんな疑問等思いつかない位、その時の僕は焦っていた。……僕の部屋のすぐ下がリビングで、そこにはまだ両親がいるはずだったからだ。
 僕は“静かに”と“今そっち行くから待ってて”をジェスチャーで綾里に伝えて、こっそり家を抜け出した。

 長い間、2人は黙々と夜道を歩いていた。会いに来たはずの綾里が何も言わないのだから、僕に喋る事が出来る訳がない。
 遂に僕達は、あの木立の横を並んで歩き始める。夏の夜というのは、思っていたよりも静かなもので、名前も分からない虫達の重複する鳴き声の他は、サンダルをずるずると引きずる僕の足音しか聞こえない。本当に2人だけになったみたいで、それが更に僕らの空気を気まずくさせた。
 そしてこの先には学校がある。僕は今日、その学校から綾里とあの男が木立に入って行くのを見た。つまり、僕達が通う学校だ。僕達は今、毎日使っている通学路を歩いていた。
 綾里が、いつでも開いたままの校門を抜け、校内に入る。僕もそれに続いた。校舎の中に入りさえしなければ、セキュリティシステムに引っかかりもしない事など、生徒の誰もが知っている事だ。
 それに、この時期になると毎年グラウンドに花火のゴミなんかが散乱していたりする事から、どんなに騒いだ所で誰も注意にすら来ないのだろう、と僕は思っていた。
「……ごめんね、雄瀧君。こんなとこまでついて来てもらっちゃって。今日のお返事、しようと思って」
 どくん。僕の心臓は変に脈打った。
 今日の返事。それが何を意味するのか瞬時に理解したからだ。
『僕は綾里が好きだ』
「ね、目閉じてくれる?」
 僕は何も言わず目を閉じて軽く俯いた。
 しばらくして唇に柔らかく暖かい何か、が触れた。ふわり、と良い匂いもする。
 綾里は何の気配もなく近付いて来て、そっと僕にキスをしていた。
 その事に気が付いてすぐに顔を上げると、互いの唇が離れて、綾里がゆっくり笑った。
「目閉じてて、って言ったでしょ?ちゃんと言う事聞いてくれなくちゃ」
「ご、ごめん」
 言われるがまま、僕は再び目を閉じる。何を期待している訳もなかった、と言えば嘘になるだろうか。
 僕は確かにその後起こるだろう何かを待っていた。
 相変わらず綾里の気配はまるでしない。綾里が何をしているのか、分からなかった。いや、綾里が僕の前にいるのかどうかも分からなかった。
 永遠に感じられる刹那、とでも言うのだろうか。それは僕の家から学校までの長い沈黙よりも、待っている、という分だけ長く感じられた。
 その緊張感に耐えられなくなった僕は、そろそろと目を開けた。もう大分闇に慣れてきた。暗がりの中でもはっきりと物が見える程までに。それでも何処にも綾里を見る事は出来ない。
「綾里……?」
 僕は間抜けにも、呆然とした様で彼女の名前を呼んだ。
 ぐるり、と辺りを見回してやっと気付く。……玄関が開いていた。
 ここから、中に入ったのだろうか?
 僕は見えない綾里の影を追いかけるみたいに、玄関へと吸い込まれていく。
 靴を脱ぐ暇もない程焦っていたのか、そこには長く続く足跡が薄く残っていた。僕にはどれだけの間自分が綾里を見失っていたのか分からない。だからこそ僕は少しでも綾里に追いつこうと、彼女の足跡を辿り走った。
 階段を一気に駆け上がる。玄関から1階、2階……そして屋上へ。
 軽く弾む息を整えながら先を見据える。
 綾里はいなかった。



白水社 シェイクスピア全集 夏の夜の夢 小田島雄志訳