北方の常春の地の住人

   《北方の常春の地の住人》

「ねぇ、やっぱり戦争に行くの?」
 そう問いかける僕に彼は頷く。
「・・・・・・オレ、家族もいないから」
 僕には家族がいて、彼には家族がいないから。助けてくれる人がいないから。彼はそんな風に僻んだりする人間じゃなかったけれど、そう聞こえてしまう自分がとても悲しかった。
「・・・・・・・・・・ごめん」
「なんでお前が謝るんだよ。こいつはオレが決めたんだ。誰も悪くないし、だからってオレが不幸だとは限らないさ」
 もしかしたら、幸運の始まりかもしれないぜ、と彼は明るく笑ってみせる。
 ――――ここは北方の国、常春の地。
 この、一面に花が咲く丘の斜面に寝そべって空を見上げるのが、僕ら2人のお気に入りだった。
「もう、会えなくなっちゃうね」
「バーカ、また会えるさ。縁起でもないこと言うなよ」
「ぼ・・・・・っ、僕はそんなことが言いたいんじゃ・・・・・!」
「ははは、またムキになってやんの」
 いつもみたいなやり取りに、花はふわふわと揺れる。
「・・・・・向こうは、寒いらしいんだ。寒い上に、土地が痩せてる」
「うん、学校で聞いたよ・・・・・だから、向こうの国はこっちに攻めてきてるんだって」
 不意に、彼は立ち上がった。少し、泣いていたのかもしれない。
「・・・・・・・おじさんとおばさんによろしくな。ありがとうございました、って言っといてくれよ」
 ――――ここは北方の国、常春の地。
「オレ、何があったって絶対ここに帰ってくるから」
 そう言い残した彼を送り出して、まもなく戦争は終わった。
 彼は、帰ってこなかった。

     †

 学校を卒業して、踏ん切りがついたから。
 そう理由付けして、僕は彼を捜しに行くことにした。彼が自分で帰って来れないなら、僕が迎えに行かなくちゃ。
「・・・・・・でもね、あの子は戦死した、って電報が来たじゃないの。迎えに行くも何も、あの子はもういないんだよ!だから、あんな寒くて物騒なところへ行くのはおよし!」
 確かに母さんの言う通り、電報は来た。でも、それが何だっていうんだろう?
 彼がもし死んでしまったのなら、骨だけでも、遺品だけでも、ここへ帰してあげなければいけない。それにもしかしたら、彼は生きているかもしれない。・・・・・だったら、迎えに行かなくちゃ。
 あんなに、ここに帰ってきたがっていたんだから。
 必死に僕を止めようとする母さんと、何も言わずに押し黙っている父さん。本当は僕だってわかってるんだ。向こうの国はこの国の何倍も広くて、しかも国境のところはまだ荒れている。そんな中で人ひとりを捜すなんて、無謀に過ぎるってことぐらい。
 その事実を断ち切るように、僕は背嚢に物品を放り込んでいった。携帯食糧、缶詰、ナイフ、マッチ、コンパス・・・・・と、そこで何かが差し出された。
 今までずっと黙っていた父さんが、僕に黒光りする小さな拳銃を差し出していた。
「護身用で弾は2発しか込められないが、持っていけ」
「でも、僕には使えないよ・・・・・・父さん、必要ないよ」
「使う使わないの問題ではないんだ。持っていきなさい。私たちのためにも」
 有無を言わさない口調だった。仕方なく、銃を受け取る。
「僕は・・・・・・・・行くよ。絶対に、彼を連れて帰ってくる」
 その僕の言葉に母さんは何か言おうとしたけれど、父さんは手だけでそれを制した。そしてただ黙って、頷く。
「・・・・・それじゃ、行ってきます」
 必ず帰ってきます、そんな意味を込めて僕はわざと振り返らずに扉を開けた。背嚢の中の、重く冷たい銃の感触に一瞬どきりとしたけれど、気にしない風を装った。これからは、そういう(・・・・)場所に行くのだから。
「お願いだから・・・・・生きて・・・・・・・・・・・」
 まるで戦地へ送り出すみたいに母さんが言ったのが、微かに耳に残った。
 ――――国境までは、遠い。

     †

 旅外套の前を掻き合わせても、冷気はその下に忍び込んでくる。吐いた息が悉く白く凍り付いていく。
 ―――初めて越えた国境は、聞きしに勝る寒さで僕を出迎えてくれた。家を出てから二ヶ月近くが経ったんだろうか。それだけ歩いて、やっと国境を越えた。
 戦争の時は敵であった国。その最初の町は思っていたよりも賑やかで、ちょっと不思議な感じがする。
 最も国境に近いこの町は、前線基地みたいな役割をしていたんだそうだ。だから戦時中にも人や物が集まって、戦争が終わった後も残った人たちが生活し続けている。他にも、色々な事情で故郷に帰れない人たちも多く住んでいるみたいで、こちらの国の人ばかりでなく僕の国の人も多く見かける。
 今までは本でしか知らなかったような『雪』という小さな氷の粒が、周りをふわふわと舞っている。これはその中でも特に粒の小さな種類で『風花』というのだと知ったのは、この町に来てから。
「さぁ・・・・・こんな子、ウチじゃ見たことないねぇ」
 立ち寄った酒場のマスターに彼の写真を見せたけれど、やっぱり色よい返事は返ってこなかった。でも、まだわからない。  馴染みのお客さんなんだろうな、カウンターでバーボンを呷っていた渋い感じの男の人にマスターが尋ねた。男の人は首を横に振ったけれど、写真はまた別のお客の所へ回されて、この酒場全体に行き渡っていく。
 上品なカフェなどには無い、酒場という場所ならではのネットワーク。しかも時々、お客の中に情報屋さんみたいな人がいたりすることもあるから、当ての無い人捜しには持ってこいなんだ。これも、家を出てから学んだこと。
 実は、この町に来たのもそのおかげ。まだ国境を越える前、彼と話したことがあると言うご老人に、ある酒場で出会った。負傷兵だったその人の話によると、彼はこの町の近くの戦場に配属されたという。だから、僕はこの町へ。
「すまないね、この店に知ってる奴ぁいないみたいだ」
 結局、何の情報も無いまま写真は僕のところへ戻ってきてしまった。決して珍しいことじゃないけれど、ちょっと残念。彼が戦死したかもしれない場所に近いこの町なら、多少なりとも何かわかると思ってたから。
「そうですか・・・・すみません、お手間をおかけしちゃって」
 僕はお酒を飲む気は無かったから、邪魔にならないうちにさっさと店を出た。特に意識しないままに溜息が一つ零れる。低く垂れ込めた灰色の空には、明るさなんてどこにも無かった。
「・・・・・・・君は、こんなところで戦ってたんだね」
 もう悴んでしまった指先を擦りながら、もういないのかもしれない彼に呟く。こんな寒いところで、君は独りで。
『―――お前だって、ここまで来たじゃないか』
「でも、僕は戦ってなんかないよ」
『戦ってるさ。たった独りでオレを捜してる。それだって立派な〈戦い〉だ』
「・・・・・・・・・そうかな」
『そうさ』
 ここにいない彼の声。決して聞こえないはずのそれがそっと励ましてくれたような気がして、少し気を持ち直す。もうちょっと、頑張ってみよう。
 と。
「・・・・・・・・・・・・・・・え」
 通りを挟んだ向こう側、そこを見知った顔が通り過ぎていく。多少やつれているように見えたけれど、あれは確かに彼!
「―――――待って!」
 でも、すぐに人込みに紛れて消えてしまって、もう一度見つけることはできなかった。風花の舞う、どこか疲労した喧騒は、顔色一つ変えることなく流れていく。

   †

 やっとのことで辿り着いた安宿屋は、僕以外にお客はいないみたいで、やけにがらんとしていた。
 あの、彼と思しき人影が見えなくなった後、僕はまず周りを捜してみることにした。けれど、近くで殺人があったとかで大騒ぎになって、とてもそれどころではなくなってしまった。僕の住んでいたところでは殺人なんて殆ど無かったのに、家を離れてからというもの、人の死に立ち会うことが多い。大抵は旅の途中で行き倒れてしまった旅人の人々だったけれど、中には盗賊などの類に襲われてしまった人もいた。物騒なことに。
・・・・・いや、きっとあそこがとても平和だっただけなんだろうな。
 その証拠に、この宿屋の女将さんも溜息をつくだけで、特に慌てている様子は無い。
「最近、この辺りじゃ多いんだよ。殺し。・・・・・・軍人さんやらお役人やら、軍に関わってたやつらばっかさね」
「大変・・・・・ですね。やっぱり戦争のせいなんでしょうか・・・・・?」
「さぁねぇ・・・・・・・とにかく、そういう胡散臭いやつらに関わらないことが一番さ。軍に関わってもロクなことなんざ、ひとっつもありゃしない」
 そこで、僕は彼の写真を女将さんに差し出した。
「僕、この写真の彼を捜してるんです。最後にこの辺りの部隊の配属になったらしいんですが、どこかで見かけられたこととかありませんか・・・・・・・?」
 その写真をつまみ上げた女将さんの表情が凍った。
「―――この子・・・・・・・・・」
 とても、何も知らないような様子じゃない。・・・・この人は、彼を知っている!
「あの、彼について何か知ってるんですか!?何でもいいんです、もし何か知っていたら教えてください!!」
 女将さんは、固い表情で真っ直ぐに僕を見た。
「・・・・・・あんた、本当にこの子を捜してるんだね?」
「そうです!」
「この子がどんなことになってても、会うんだね?」
「え・・・・・・・・・・?」
『どんなことになってても』? それはつまり―――
「・・・・・・彼は、死んだんですか?」でも、だとしたら、さっき見た彼は何だったのだろう?
 女将さんは何も言わない。ただ、念を押すように。
「会うんだね?」
「・・・・・・・・はい」
 深々と、哀しそうな溜息。
「そうかい・・・・・なら、話してあげる。でも、それは明日。急に話せっても話せるような事じゃあないからね」
「ありがとうございます・・・・・・!」
 僕は、深く頭を下げた。

  †

 そして翌朝、女将さんは殺されていた。ナイフで一突きだった。
「そんな・・・・・」
 また、彼への手掛かりが一つ消えた。でもそれよりも、僕のこんなすぐ近くで見知った人が亡くなってしまったのがショックだった。
 お客は僕一人だったから、もちろん僕も犯行を疑われたけれど、証拠が全く出なかったからすぐに解放された。僕が余所者だったからだろう、僕を取り調べた軍の人は忌々しそうに舌打ちをしていた・・・・・・・結局、軍のお世話になってしまったみたい。亡くなった女将さんが『関わるな』と言っていた、軍。
 何とも雑なことだけれど、事件の一連の処理は現場となった宿屋で行われた。どうも、この町には警察とかそういうものが無いみたいで、軍がその代わりをしているらしい。きちんとした司法官憲じゃないものだから、こんな風に荒削りになってしまっているのかも。
 やっとのことで解放されて表へ出ると、人の壁が宿屋と通りを厚く隔てていた。いつの世も野次馬は絶えない。ただの好奇心だけで集まった人たちに、死者に対する慎みは無くて、それがとても嫌な感じがした。そう思っているのは僕だけなんだろうか? 人の死に触れたことが少ないから、こんな風に思ってしまうだけのことなんだろうか?
 もちろん、人々の目は僕の方へ向いてくる。彼らにとっては僕も当事者の一人。絶好の標的なのだから。
「ねぇ君、死んだ人はどんなだった?」
「死因は何だったのよ、何で殺されたの!?」
「本当は手前ぇがやったんだろ!? しらばっくれてんじゃねーよ!!」
 口々に言葉を浴びせられる中を、それでも掻き分けて進んでいく。
「・・・・・・・通してください。お願いだから、通して・・・・・・」
 魚の群がる浮き餌のような錯覚。まるで取って食われてしまうみたいな。
 救いを求めて視線を上げると、群衆から少し離れたところに佇む人影が目に入った。
 見慣れないよい仕立ての外套に黒い手袋、向こうの国の軍用ベレー。そんな格好の若者がじっと僕の方を見つめている。
 なんだ、軍の人か。そう思って見過ごしてしまったけれど、その驚いたような表情には見覚えがあった。慌てて視線を戻す。
「・・・・・・・・・・・まさか、君かい!?」
「―――――っ!」
 しかし、彼の方は瞬間に目を逸らして、足早に去っていってしまう―――それが、なおさら彼であることの証明。
「ちょっと、待ってよ! ねえ!?」
 人のカタチをしたお喋りな魚たちを無理やり振り解く。
・・・・・やっぱり、昨日見たのは彼だったんだ。女将さんはあんな風に言ってたけど、彼は生きていたんだ! 別に酷い怪我をしているようではなかったから、何か事情があって帰れなくなってしまったのだろう。向こうの服を着ていたのも関係があるのかもしれない――― 彼は人気のない裏路地の方へ走っていく。追いかける僕。二人の間に障害物は何も無いのに、距離は一向に縮まらないどころか、どんどん引き離されていく。
(・・・・・・・見失っちゃった)
 ここは町のどの辺りなんだろう? 誰も・・・・誰も、いない。
 見たところ工場町のようだけれど、作業機械の動く音は聞こえず、どの煙突も煙を吐き出してはいなかった。
 ――――彼は、こんなところにいるのだろうか?
 当て所も無く彷徨っていると、すぐ右の倉庫らしき扉から微かに人の声が漏れ聞こえていた。
 誰かいるのならせめて道だけでも聞こうと思って、その隙間を覗く。話しているのは二人みたいだ。内容までは聞き取れないけれど、何やら険悪な雰囲気がした。
(話が終わるまで、ちょっと待っていよう・・・・・・)
 と、話が終わったのか、一人が背を向けた。そのまま立ち去っていく。その背にもう一人が右腕を伸ばして。
 ―――パァン。
 嫌に乾いた音がした。
 立ち去りかけた人はその足を止め、声も無く崩れ落ちる。伸ばされた右腕からは細い煙。
 殺し。銃で、撃った。
 見た、見てしまった。どうしたらいいんだろう? 僕の頭はぐちゃぐちゃになる。止める? 止めるにしてももう遅い。なら逃げる? 逃げ切れるのだろうか?
 でも、それもすぐに真っ白になった。銃を撃った殺人犯の顔が見えたから。
 ・・・・・・・・撃ったのは、彼。さっき見失ってしまった彼。
 その瞬間に、僕は扉を押し開いて彼の元へと走り出していた。こちらを見た彼が絶望的な表情をする。
「お前・・・・・・・・見てた、のか」
僕は―――何も、考えていない。
「・・・・何で、何で逃げるの?」
彼が向こうの軍の服を着ているだとか、彼が殺人犯だとか、そんなことは頭に無かった。
「僕は君を迎えに来たんだ。いつまで経っても帰ってこなかったから、自分で帰って来れないんじゃないかって思って・・・・・・・」
 その強張った手を取る。
「・・・・・・だからほら、一緒に帰ろう?」
 しかし、その手は強く振り解かれた。
「え・・・・?」
「―――オレは、帰らない」
 改めて彼の顔を見た。表情が凍って、まるで、泣いているみたいに見えた。
「オレ、捕虜になったんだ。戦争が終わる、少し前に。収容所に入れられて、ある日、軍の人間が取引に来た。『このままでは一生捕虜のままだ。もしかすると、秘密裏に人体実験の材料にされてしまうかもしれない。ならば、こちらの人間として生きてみないか』って・・・・・・」
「それで、オレは軍直属の暗殺者になった。ほら、オレってこの国の人間じゃないだろ? だから顔も知られてなくて、うってつけだったんだ。結構長い間訓練して、今は戦争で邪魔になったヤツを始末してる」
 彼は眉一つ動かさずに言い切った。昔は、あんなにも表情豊かだったのに。
「そんな・・・・」
 僕は何も言えない。何を言ったらいいのか、全くわからない。
「お前が泊まってた宿屋の女将、アイツ殺したのもオレ。放っといたらオレのこと喋っちまいそうだったから。アイツ、ちょっと前まで軍の上層部と関係があったから、オレのことも知ってたんだ」
 まるで人をものか何かのように言う彼。その様子があまりにもらしくなくて、とても淋しかった。
 拳銃を手の中で弄びながら、彼はなおも続ける。
「オレはこの生き方を選んだ。これが、オレの意志なんだ―――だから、オレはオレの邪魔する奴を許さない」
 その手がしっかりと銃把を握り締めて、銃口が僕の方を向いた。撃鉄が上げられる。
「たとえ、それがお前であっても」
 隙のない彼の射撃体勢に僕は声もなく立ち尽くすことしかできなかった。
 彼は変わってしまったんだろうか? この戦争で。・・・・・・・心の表面ではそう思っていても、内側では否定したい気持ちが谺している。
 そして、やっとのことで出した声はやけに喉に引っかかって、自分の声じゃないみたいに掠れていた。
「なん、で・・・・・・君は、あんなにも帰ってきたがってたじゃないか・・・・・」
「――――さぁな。覚えてねーよ」
「それとも、もう帰ってきたくないの・・・・?」
 答えは弾丸で返ってきた。再び乾いた音と共に放たれた小さな死神は、しかし見えない速さで僕の背嚢に穴を開けただけだった。そこから布が裂けて、中の物が零れ落ちた。
「―――次は、外さねーからな」
 昏い銃口はぴったりと僕に向けられたままで、でも静かな口調とは裏腹に表情は歪んでいた。今にも泣き出しそうに。
 だから僕は。
「・・・・・・帰ろう、僕らの国に。君はこんなところにいるべきじゃない」
 銃口が怖くない訳じゃない。彼が本当に撃たないという保証もない。それでも、僕は彼に話しかけながら一歩を踏み出す。
「・・・もういいよ。君はもう充分耐えたよ。だから・・・・帰ろう」
「来るな!」
 今度こそ、弾丸は僕の足に命中した。貫通する、というよりは肉が抉られて、焼けるような痛みが傷口から生まれる。
 体重をかければ、きっと物凄く痛いんだろう。それがわかっていて、敢えて踏み出すもう一歩。案の定、激痛が螺旋状に足を取り巻いたけれど、顔をしかめて耐える。
 彼は、もっと『痛い』はずだから。
「僕は、そのために来たんだ。ほら、帰ろう・・・・?」
 彼に向かって手を差し伸べる。
「来るなぁっ――――――!!」
 彼の銃を握る手が激しく震えて、僕は咄嗟にその銃を叩き落とした。思っていたよりも簡単に銃は向こうの方へ飛んでいって、少しほっとした瞬間に彼に思い切り殴られた。撃たれた足ではよろめいた体を支えきれなくて、そのまま僕は倒れこむ。
 地面には僕の背嚢の中身が散らばっていた。その中で僕のちょうど目の前、そこに父さんに持たされた小さな護身銃があった。
(あ・・・・・・)
 無我夢中で僕はその重い鉄の塊に手を伸ばす。頭では何も考えていなかった。それを手に取ってどうするのかということよりも先に、『彼に渡しちゃいけない』と、そういう危機感があっただけ。
 しかし、そう思ったのは彼も同じだったのか、僕の手が銃に届くと同時に彼の指も銃に触れていた。
「放せよ」
「・・・・・ごめん、これは父さんからもらった物だから、これで誰かを殺させる訳にはいかないんだ・・・・・・」,br>  もちろん、それで彼が手を放してくれるはずはなくて、捻り上げられるような感じで僕の手を銃から引き剥がそうとする。足に力が入れられない僕は必死でそれに縋りつく。強い力で体が引き摺られて、その度に足が痛んで床に赤い痕がついた。
「この・・・・・っ、放しやがれっ!」
 一方的に僕がしがみついているだけだったけれど、傍から見れば確かにもみ合っているように見えるんだろう。互いに銃を握り締める手の力はますます強くなっていく。だから、どちらの指が先に引き金にかかったのか、わからなかった。
 だから、今日何度目かの乾いた破裂音がしても、何が起こったのか一瞬わからなかった。
 胸に開いた小さな穴から、半開きのその口から、嘘みたいに真っ赤な液体が溢れ出して零れ落ちて。何が起こったかわからないままに自分の胸を見る。
「――――あ・・・・・・?」
 ―――撃たれたのは、僕の方だった。
 痺れるような感じが胸から全身に広がって、力が入らない。硝煙を上げる銃から手が滑り落ちて、支えるものを失くした僕は崩れ落ちた。冷たいはずのコンクリートの床がやけに熱くて、体温が下がったのかなぁ、なんて落ち着いて考えてみたりする。でも、感覚はすぐにわからなくなってしまった。
 自分の血が作り出した小さな水溜りに体を浸して、僕は変に落ち着いていた。
「・・・・・・・・僕はね、君を迎えに、来たんだ」
 未だに呆然と立ち尽くしている彼に、そっと話しかける。泣き出しそうだった表情はまっさらになっていて、やっぱり昔のままの彼だったんだと、そう思った。
「だから・・・・・一緒、に、帰・・・・・ろ・・・・・・・・・・」
 その彼の顔を最後に、僕の意識はふっつりと途切れた。

   †

――――あれから、6年。
 今、僕は荷馬車に揺られてこの懐かしい道を戻っている。
 彼を探しに、僕が一人で向こうの国へ向かった道。まだ戦争が起こる前、彼と二人で笑いながら歩いた道。日差しは暖かくて、まるで前と同じだった。
 やがて、一際大きく荷馬車は揺れて止まる。
「ほら、着いたぜ」
 御者台から降りた彼が僕を荷台から降ろして、あの丘の斜面まで運んでくれる。僕らの好きだったその花咲く丘は、やっぱりというか何というか、6年たった今も何も変わらないままだった。まるで、この国だけが時間に取り残されているみたいに。
 そして彼は僕を花の中に下ろして、重い蓋を開けて青空を見せてくれた。
「6年って、すごく長い気がしたけど・・・・・ここは全然変わってねーのな」
 そうだね、と僕も言いたかったけれど、もう喋ることはできなかった。
 彼が開けたのは棺桶の蓋。中には、あの銃の暴発で死んだ僕が、そのままの姿で横たわっている。
 ――――あの後、彼は軍を抜けた。
 僕が死んで、やっと彼の中で決心がついたんだと思う。僕と一緒に帰るために、彼は生き方をもう一度選び直した。執拗に追ってくる軍の追っ手を彼は何とか振り切ったけれど、おかげで6年もかかってしまった。
 そしてその間、僕の体はずっと水の中に安置されていた。これは彼の希望で、僕を生きていたままの姿で連れて帰るためだった。死蝋化といって、水の中とかに浸けておくと死体が蝋状になって腐らなくなることがあるらしい。彼はそうやって僕をそのままにすることに成功した。
 ――――そして、僕らは遂に帰ってきた。
 いつかのあの日みたいに、花がふわふわと揺れる。
「・・・・・・やっぱりオレ、帰ってきたかったんだなぁって・・・・・・」
 もう話すことのできない僕に、それでも彼は静かに話しかけてくれる。
「・・・・・・・・ここまで来て、そう思ったよ」
 僕の棺桶の横に昔と同じように寝そべって、昔と同じように二人で青空を見上げた。
「ありがとな。オレを、ここまで連れて帰ってきてくれて」
 ――――ここは北方の国、常春の地。
 彼の顔は見えなかったから、ただ笑っていてくれるといいなぁ、とぼんやり思った。